2013年1月31日木曜日

牧師のひとり言 NO26




    初老牧師:友川栄

     「聴き続けよ」


イエス・キリストの公生涯はバプテスマのヨハネによる洗礼から始まる。洗礼を受ける者は己の罪を深く悔いている人々です。「どうして駄目なのだろうか?」「正しいことを知りながらも、邪悪な道に巻き込まれてしまうのか?」「神の御旨に何と遠い者か?」と嘆き悲しむ者が
洗礼を受ける。そこから信仰生活が始まるのです・・・。イエス・キリストの者とされる生活です。感謝と悲しみ、喜びと憂いが交差する歩みです。将に「狭い門」に踏み入ることでしょう。


マタイ福音書ではファリサイ人、サドカイ人が大勢バプテスマのヨハネのもとに来たと記しています。彼らは宗教的指導者です。神から選ばれている誇りがあったと思う。非常に生真面目な人々であったのでしょう。真摯に神と格闘をしていたからこそ、ヨハネのもとへ行ったのではないかと思う。ヨハネは彼らに対して「自分たちの父はアブラハムがある」などというプライドを捨てよ。神は石ころからでもアブラハムを起こすことが出来ると断言する。厳しい審きです。信仰生活には慰めと審きが伴う。


イエス・キリストもバプテスマのヨハネのもとに行き洗礼を受ける。罪を犯されないお方です。ですからヨハネはイエスの意向を阻止しようとする。それに対してイエス・キリストは「すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」(マタイ3:15)と語る。「正しい」という言葉は「義」と訳されている言葉。神に忠実に従うことです。


私はここにクリスチャンの歩むべき「道しるべ」が書かれている、と理解したい。イエスが洗礼を受けた後、天からの声は「これはわたしの愛する子、私の心にかなう者である」(マタイ3:17)でした。17章5節にも全く同じ言葉がある。ただ、そこには「これに聞け」が付加されています。イエスに聴き続けよ。悩みながらも、繰り返し習慣になるまでイエスに聴き続ける、祈る、拝する。信仰生活の真骨頂がここにあるのではないでしょうか。イエスの深い愛によって変えていていただく。「こちこち」に固まっている偏見や思い込みや差別を変革していただく。世智辛い世にあって、イエス・キリストに聴き続ける者でありたい。疑い、悩み、揺れながら・・・。