2018年9月16日日曜日

9月16日の礼拝後の懇談会!

礼拝後
上星川教会のN・Iご夫妻から
郵送してくださった
美味しいブドウを頂きました!
感謝ですね!

またT牧師の次男夫妻から
お菓子まで・・・
ありがとう!

2018年6月12日火曜日

T牧師夫妻が出席!

お祈りに感謝します!

T牧師夫妻
結婚40周年です!




 

2018年2月2日金曜日

説教要旨

                     
                         
                    「主イエスに従い、生きよ」   牧師:友川栄
マルコによる福音書8章27~33節

   イエス・キリストがピリポ・カイザリヤで弟子たちと交わした問答はキリスト教信仰の精髄を示していると受け止めたい。イエス・キリストは弟子たちに「あなたがたはわたしをだれとだと言うか」と尋ねた時に、ペテロは「あなたこそキリストです」と見事な信仰告白をする。ローマの支配から解放する「救い主」と考えて自信満々と答えたのではないか。だが、イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、しかもあからさまに、この事を話された」(31、32節)時、事態は一変する。

   ペテロはイエスをわきへ引き寄せていさめ始める。イエス・キリストの御心を承服しかねたのだろう。ペテロは自分の考えをイエスに押し付けようとする。自分の願いが叶うことを最優先したのだ。ここに最大の罪がないか。弟子たちを初めとする人間の思いや祈りを優先する罪だ。それに対するイエス・キリストの叱責に留意したい。「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(33節)「引きさがれ」とは「後ろに退け」が原意に近い。信仰が熱心であればある程、意外と自分の我を通そうとしないか。熱心さが神の御心を軽視することも起こり得る。イエス・キリストはそこに「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」岩盤のような罪を喝破する。

   更に、イエス・キリストはその罪から自由になる救いの道を示す。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」がそれだ。「自分を捨て」をある英訳は「忘れ、無視し、自分のものと認めず、自己や自分の利益を忘れる」と補足する。「十字架を負う」とは試練に耐えるという意味ではない。神や他者のために労することを厭わないという積極的な意味だ。「わたしに従ってきなさい」も「Joining Me as a disciple and siding with My party:弟子としてわたしに加わり、わたしを味方につけなさい」と的確に意訳する。それに「継続して、このわたしに堅く忠実にしながら」と記す。主イエスに忠実に従い、神の御心に適うよう生きていきたい。     

  
  

2018年1月16日火曜日

牧師のひとり言(1月14日)

     「イエスに聞き従え」 友川栄牧師
 
 イエス・キリストの公生涯はバプテスマのヨハネから洗礼を受ける時から始まる。マタイ、ルカ福音書にもイエス・キリストの洗礼の並行記事が記されているが、マルコ福音書は非常に簡潔で短い。だがここにイエス・キリストの「救い主」の全生涯の秘儀が書かれていると受け止めたい。

バプテスマのヨハネは「わたしよりも力あるかたが、あとからおいでになる。・・・わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは。聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」と告げる。力あるイエス・キリストは人々に聖霊をもってバプテスマを授けることが出来た筈である。しかし、マルコ福音書の著者は「イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった」と記す。

罪人である人間と同じように洗礼を受けたのだ。更に、ナタナエルが「ナザレから、なんのよいものが出ようか」(ヨハネ1章46節)とるように、ガリラヤのナザレは辺境の地であった。ここにキリスト教信仰の福音が記されていないか。人間は学齢や業績や家柄を誇りやすい。キリスト者でも「某大教会」「某先生の教会」出身と声高に誇る人々がいるが何とも情けない。また、イエスが洗礼を受けた時、天から聞いた声に留意したい。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(1章11節)。

これは詩編2編7節(王の即位)とイザヤ書42章1節(主の僕)からの引用である。ある聖書学者はイザヤ書(第2イザヤ)の「主の僕」全てを指すと言う。特に、第4の「主の僕」は「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で病を知っていた。・・・しかし彼はわれわれのとがにために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめををうけた、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」と告げる。ここにイエス・キリストの十字架の死が暗示されていないか。罪人のために命まで捨てた「神の愛」が記されていないか。「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(8章34節)と勧めたイエス・キリストに聞き従って行きたい。 

2017年12月26日火曜日

大貫クリスマス(12月25日)

大貫クリスマス
多くの方々が出席して下さいました!
H宣教師ご夫妻、M宣教師も参加して下さいました!
Thank you for participating our Christmas service at Ohnuki!



礼拝前の懇談