説教要旨

「唯々、神の御心がなるように」


  マルコ福音書 6章14~29節
2022年7月10日

  マルコ福音書6章14節以下を本田哲郎氏は「沈めの式を行うヨハネとだぶるイエスのイメージ」と小見出しにつける。主イエスの十字架の予表がここに書かれていないか。

 この記事は主イエスが12弟子たちを神の国の福音を宣教に遣わす文脈にある。つまり全てのキリスト者の信仰の要諦が書かれていると受け止めたい。伝道はいつの時代も容易ではない。人間は実に身勝手だからだ。神の御心よりも自分の思いを優先する存在なのだ。自分の事しか考えない罪人なのだ。

 バプテスマのヨハネは「神の国は近づいた。悔い改めて(佐藤研氏は「回心せよ」と訳す)福音を信じなさい」(1章15節)と説いた。自分の思いが実現するよりも神の御心がなるようにと方向転換しなければならない。繰り返し、そこに立ち戻らなければいけない。バプテスマのヨハネはヘロデ・アンテパス(BC4~AD39:ガリラヤ、ペレアの領主)を兄弟フィリポの妻ヘロディアを横取りしたことを律法違反(レビ記18章16節)として痛烈に批判する。ヘロデ・アンテパスはバプテスマのヨハネを殺害しようと思いながらも出来ずにいた。

 マルコ福音書の著者は「ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護しまた、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」(20節)と書き記す。私たちも時折「日曜日クリスチァン」にならないだろうか。

 主イエスを信じて従った12弟子たちも、主イエスの教えに驚嘆し喜んで聞き従っていたが、主イエスがご自身の受難を告げると状況は一変する。誰でも試練や艱難に遭遇することは好まない。むしろ回避したい。だが、主イエスは弟子たちに「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8章34節)と勧める。

 キリスト者は「自分を捨て」なければいけない。自分の願いよりも神の御心を優先しなければいけない。E.H.ピーターソンは「私が運転席に座るのだ。あなたではない。苦難から逃げるな。苦難を受け容れよ」と大胆に訳す。ヘロデ・アンテパスは自分の保身と自らの力でバプテスマのヨハネを殺害する。

 だが、主イエスが語った「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10章28節)を忘れてはいけない。主イエスは他者を生かすために自らの命を捨てたのだ。復活したもう主イエスは今の働いていたもう。神の御心がなるようにと祈りたい。