説教要旨

2019年2月24日


「御言葉の恩寵に賭けて生きる」

友川 栄


 ルカ福音書5章1節以下はシモン(ペテロ:岩の意味)の召命物語だが、シモンは主イエスの召しに素直に従ったのではない。
 マタイ、マルコ福音書の平衡記事では、網で漁をしていた漁師のシモンやゼベダイの子ヤコブ、ヨハネに対してイエスが「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と召し出すと、網を捨てて従ったと記す。ルカ福音書ではイエスとシモンとの対話が述べられ、キリスト者になるとは如何いう事なのかをよりリアルに記されていると言えよう。
 イエスはシモンの舟に乗り込み、ゲネサレ湖畔に押し寄せていた群衆に「神の言」を宣べた。だが、シモンにとってイエスの「神の言」は他人事ではなかったか。シモンは夜を徹して漁をしたのだが、魚が一匹も獲れなかったのだ。大漁なら徹夜しても疲労は無く、達成感で心地好く感じられるものだ。家族の生活を考えると、虚しさと徒労感で一杯ではなかったか。
 シモンが落ち込んでいるのをよく知っていたイエスは「沖へこぎ出し網をおろして漁をしてみなさい」と勧める。シモンは漁師なのだ。イエスは大工。シモンは「素人に何が分かるか」と聞き流すことだ出来たのだ。
 だが、シモンは「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と語る。シモンの偉いところは自分の窮状を述べながらも「しかし、お言葉ですから(原文は「あなたの言葉に信頼して」「あなたの言葉に従って」という意味が暗示させている)」とイエスの「御言葉の恩寵に賭けた」ことだ。
 キリスト者とはイエスの御言葉に信頼し続ける者ではないか。状況が困難であっても、悲しみが深くても「しかし、お言葉ですから」とイエスの御言葉に全幅の信頼を置き続ける者ではないか。
 それは同時に「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と自らの不信仰を告白せざるを得ないことも忘れてはいけない。イエスはそのような罪人を「今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」と変革せしめる。
 主イエスの御言葉の恩寵に賭けて生きていきたい。