2018年2月2日金曜日

説教要旨

                     
                         
                    「主イエスに従い、生きよ」   牧師:友川栄
マルコによる福音書8章27~33節

   イエス・キリストがピリポ・カイザリヤで弟子たちと交わした問答はキリスト教信仰の精髄を示していると受け止めたい。イエス・キリストは弟子たちに「あなたがたはわたしをだれとだと言うか」と尋ねた時に、ペテロは「あなたこそキリストです」と見事な信仰告白をする。ローマの支配から解放する「救い主」と考えて自信満々と答えたのではないか。だが、イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、しかもあからさまに、この事を話された」(31、32節)時、事態は一変する。

   ペテロはイエスをわきへ引き寄せていさめ始める。イエス・キリストの御心を承服しかねたのだろう。ペテロは自分の考えをイエスに押し付けようとする。自分の願いが叶うことを最優先したのだ。ここに最大の罪がないか。弟子たちを初めとする人間の思いや祈りを優先する罪だ。それに対するイエス・キリストの叱責に留意したい。「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(33節)「引きさがれ」とは「後ろに退け」が原意に近い。信仰が熱心であればある程、意外と自分の我を通そうとしないか。熱心さが神の御心を軽視することも起こり得る。イエス・キリストはそこに「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」岩盤のような罪を喝破する。

   更に、イエス・キリストはその罪から自由になる救いの道を示す。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」がそれだ。「自分を捨て」をある英訳は「忘れ、無視し、自分のものと認めず、自己や自分の利益を忘れる」と補足する。「十字架を負う」とは試練に耐えるという意味ではない。神や他者のために労することを厭わないという積極的な意味だ。「わたしに従ってきなさい」も「Joining Me as a disciple and siding with My party:弟子としてわたしに加わり、わたしを味方につけなさい」と的確に意訳する。それに「継続して、このわたしに堅く忠実にしながら」と記す。主イエスに忠実に従い、神の御心に適うよう生きていきたい。     

  
  

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