2021年8月15日日曜日

【説教】「父の御心を求める者として」2021年 8月15日 マタイによる福音書 12章43~50節

 

「父の御心を求める者として」


2021年 8月15日 マタイによる福音書 12章43~50節

  信仰は一筋縄ではいかないものです。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」とペトロの手紙(一)5章8、9節に書かれています。神の御心よりも自分の願いを優先してしまうと、まさに悪魔が私たちに入り込み信仰を無に帰してしまうのです。

 主イエスがマタイ福音書12章43~45節に不思議なことを語っています。「汚れた霊は・・・休み場を探すが見つからない。そこで『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして整えられていた。」(マタイ12:44)と警告する。更に悪霊は七つの霊を連れてきて、そこに住み着き、状況は悪化してしまう、と続けています。信仰とはまさに戦いなのですね。皆さんもご存じの通り、信仰には色々な戦いがあります。ただ信じれば救われるという浅薄なものではありません。私たちは肉体があり心がある人間ですから色々なことが起こります。楽しいことだけではありませんよね。この御言葉はそれに対する警鐘なのです。

 次に、主イエスが語った46節以下の御言葉に留意したい。新共同訳では親切に小見出しが対いていまして、「イエスの母、兄弟」と書かれています。小見出しの下に並行記事まで記されています。マルコ3章31~35節、ルカ8章19~21節とある。今日は並行記事まで話す時間がありませんので、家に戻られたら是非読み比べて下さい。ほぼ同じ内容ですが細かいところが多少違っています。その違いが実は大切なのです。

 マタイ福音書はマルコ福音書を参照して書いたとされています。マルコ福音書は諸説があり明確には断定できませんが、紀元60年代かあるいは70年代前半に書かれたと言われています。マタイ、ルカ福音書は80年代後半に書かれたのです。今日の記事はマルコ福音書ではマタイ福音書と同じくベルゼブル論争に後に書かれています。マルコ福音書では主イエスの母や兄弟たちが「あの男は気が変になっている」(マルコ3章21節)と考えて取り押さえるために主イエスの許にきたのです。つまり母マリアやイエスの兄弟たちがイエスの事を理解できずに心配してやってくるのです。家に戻るよう説得しにきたのでしょうか。

 主イエスは大工の子であったのです。それもどうも長男です。主イエスには兄弟、姉妹がいたのです。「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ(マルコはヨセとなっている)、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことを全て、一体どこから得たのだろう」(マタイ13章55、56節)と書かれています。主イエスが長男で5人の男兄弟で少なくとも二人の妹がいたのです。7人兄弟です。私も7人兄弟です。何か親近感を抱きますね。

 主イエスは自分の母や兄弟たちが話そうとして外に立っている時、一見すると肉親の母や兄弟たちを拒否するような言葉を言うのです。そして49節、50節に「そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさ。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、または母である』」と語るのです。これは十戒の第五の戒め「あなたの父と母を敬え」(出エジプト記20:12)を破棄することではないでしょうか。神への冒涜ではないでしょうか。あるいは主イエスの真意は、信仰とは両親や兄弟姉妹と絶縁しなければいけないということでしょうか。そして、「弟子たちを弟子たちの方を指して言われた」とあります。この表現はマタイ福音書だけが記しているのです。恐らく弟子たちにも是非覚えて欲しかった教えの一つなのでしょう。忘れてはいけない教えなのです。

 私は、それを解く鍵が「天の父の御心を行う人」に暗示されていると考えています。主イエスが「父の御心を行う」と言及することは実は多くないのです。主イエスが弟子たちの教えた主の祈りの「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(6章10節)とゲッセマネの園での壮絶な祈り「父よ・・この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)後は、マタイ福音書には書かれていません。「御心を行う」とは自明な事でしょうか。私はキリスト教信仰を持って51年になります。牧師となって43年になりますが「神の御心を行う」ことが今でも分からないことが色々あります。何故、妻が「統合失調症」になったのだろうか?

 御心なら癒して下さいと幾度祈った事だろうか?でも神は癒してくれません。精神病院から早く退院させ老人ホームに入居させたいと願いながらも、はっきりとは言いませんが「統合失調症の方の対応は難しい」という理由でやんわりと断られるのです。御心とは何かを私たち人間には簡単に分からないのではないでしょうか?しかし、私の妻の病気を通して一つだけ学んでいることがあります。それは試練の中にある方々の痛みや苦悩が少しだけ分かり始めたことです。逆説的ですが、妻への愛情がいよいよ深くなってきているということです。これは確かです。

 主イエスはこの後、イスラエルの人々をローマの支配から軍事力や英知をもって解放したのでしょうか。そうではありません。主イエスは天の父なる神の御心を受け入れ十字架に架けられたのです。全ての人々の罪の贖いとして命まで捨てて下さったのです。ご自身の命を、他者を救うために捨てたのです。御心を行うことは人間には自明なものではありません。御心を信じ、喜んで受け入れるためには長く深い葛藤や疑いや諦めや悲しみも伴いましょう。でも主イエスの母マリアや弟子たちもそのような経験を味わったのではないでしょうか。特に、主イエスは母マリアの悲しみは計り知れないものがあります。自分の子供が先に死ぬ、それも十字架に架けられ死んだのです。愛する息子が母親より先に亡くなることほど悲しいことはありません。

 しかし、私たちが信じる神は試練や艱難にある人々を見捨てるお方ではありません。不思議なことに、使徒言行録1章14節は「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」とあります。血肉では理解できなったことが、母マリアや主イエスの兄弟たちも根本的に変えられ、主イエスの十字架に現れている「神の愛」が分かるようになったのではないでしょうか。神は今も生きて働いているということが分かるようになったのではないでしょうか。「神の御心を行う」こととはそういうことではないでしょうか。神を信じて行く時に、家族の絆が一層深まったのではないでしようか。私たちもこの事を信じて日々与えられた歩みを大切にしながら歩んで行きましょう。「主よ!神の御心は何ですか?」と求めながら生きていきたい。祈りましょう。