イエス・キリストの公生涯はバプテスマのヨハネから洗礼を受ける時から始まる。マタイ、ルカ福音書にもイエス・キリストの洗礼の並行記事が記されているが、マルコ福音書は非常に簡潔で短い。だがここにイエス・キリストの「救い主」の全生涯の秘儀が書かれていると受け止めたい。
バプテスマのヨハネは「わたしよりも力あるかたが、あとからおいでになる。・・・わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは。聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」と告げる。力あるイエス・キリストは人々に聖霊をもってバプテスマを授けることが出来た筈である。しかし、マルコ福音書の著者は「イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった」と記す。
罪人である人間と同じように洗礼を受けたのだ。更に、ナタナエルが「ナザレから、なんのよいものが出ようか」(ヨハネ1章46節)とるように、ガリラヤのナザレは辺境の地であった。ここにキリスト教信仰の福音が記されていないか。人間は学齢や業績や家柄を誇りやすい。キリスト者でも「某大教会」「某先生の教会」出身と声高に誇る人々がいるが何とも情けない。また、イエスが洗礼を受けた時、天から聞いた声に留意したい。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(1章11節)。
これは詩編2編7節(王の即位)とイザヤ書42章1節(主の僕)からの引用である。ある聖書学者はイザヤ書(第2イザヤ)の「主の僕」全てを指すと言う。特に、第4の「主の僕」は「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で病を知っていた。・・・しかし彼はわれわれのとがにために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめををうけた、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」と告げる。ここにイエス・キリストの十字架の死が暗示されていないか。罪人のために命まで捨てた「神の愛」が記されていないか。「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(8章34節)と勧めたイエス・キリストに聞き従って行きたい。