2012年8月23日木曜日

牧師のひとり言 NO13


                      初老牧師:友川栄

「ありのままに・・・!」

  先日(19日)は今野善郎先生(前須賀川教会牧師)をお迎えして礼拝説教をお伺いした。今野先生は29年前、私が喜多方教会で奉仕をしている際に神学生の「夏期実習」として色々奉仕をしていただいた。隣の山都教会も兼務していた多忙な時代だったように記憶する。かつて日本大学の山岳部に属して、北極点遠征や最高峰のヒマラヤ高峰に挑んだ山男。登山中に友人を雪崩で亡くし、牧師となる思いを堅くした先生である。私のように些細なことにくよくよする軟体動物?(体は滅茶くちゃ硬いのですが?)とは桁が違う。パワーとユーモアを兼ね備えた異色の牧師。久しぶりの再開に旧交を温めた。

   喜多方教会の付属幼稚園は夏休みであったが、教会の牧師には休みがあってないようなもの。東京からカトリック教会の中高生会「アネモス会」が数か所で「子供会」を開き奉仕を。会津地区主催の猪苗代湖畔の「献身キャンプ」。更には喜多方教会と山都教会との合同CSキャンプ、東京から某教会からの青年会の子供会などなど。目が回るような忙しさだった。今野先生は嫌な顔一つせず誠実に奉仕をしてくださった。あの時から、子どもたちの心を一瞬にして掴む才覚があった。北極点遠征やヒマラヤ高峰などに挑んだ登山家ならではのタフさには驚嘆。

    今野先生は教会の付属施設「幼稚園」がある教会に奉仕をなさり、昨年まで須賀川教会で12年間奉仕なさった。大きな幼稚園があり教会の宣教は大変だったと想像する。幼稚園は経営能力がないと難しい。幼稚園経営のみに力を注ぐと「教会形成」が疎かになり「幼稚園教会」になってしまう。幼稚園だけが繁栄し「教会の礼拝」が手薄になり易い。しかし「幼児教育」は神の愛の温もりを園児や保護者に伝えるには欠かせないもの。登米幼稚園もイエスが子どもを祝福したように、神から託された園児一人ひとりの人格と個性を尊重して幼児教育に励んでいる。教会と幼児教育は神の愛を伝える両輪ですが、そのバランスが難しい。

礼拝は一期一会。牧師は聖句と格闘して準備をする。原稿を書いて、一字一句読む先生もいる。以前、私もそう努めましたが、ある時から止めました。怠惰さと、多忙さや疲労等で意気消沈し原稿が書けないことも度々ありましたが、それが理由ではありません。礼拝に集っている一人ひとりの人々の魂との対話に「今、ここで」(完全原稿ではありませんが、それなりに書いていますよ。これでも?)神から示された畏れ、慰め、赦しを原稿に押し込めてしまうのではとの素朴な問いが、その理由。その時から原稿を読まずに「ここに、神がおられ」私の説教を聞いていることを信じて語るようになりました。「聖霊が導いてくださる」ことを確信しながら・・・。

   「世に打ち勝つ信仰」(ヨハネの手紙(一)5:4)とは繁栄を享受するということではありません。イエスを神の子と信じることです。それも水と血を通って来られた方(5:1)とありますから、洗礼と十字架でしょう。罪を犯していないイエスが洗礼(悔い改めの徴)を受け、十字架で死を遂げられた。私たちの罪(高慢・己が腹を神とする思い)を贖うために。私たちが裁かれねばならないのに、イエスが身代わりとなって十字架で裁かれた。「神の愛」がここにある。

    よく「愛情が大切」と言われますよね。愛がなければ人間は健全に育ちませんが、現実の生活では本当に難しいですよね。24時間、子供を100%愛せるでしょうか。仲の良い夫婦であっても四六時中「愛情」が続く訳ではない?.。「いらいら」したり「かっ!」ときたり「口論」になることも度々では?。「えっ!」一度も無い。恐れ入りました・・・。しかし、現実はそうはいかない。むしろ「愛さなければ!」と力むために挫折する。でも「失敗」や「絶望」から多くの学ぶのも事実ですよねぇ!。目には見えない神が人生の修羅場を共に闘ってくださる、そう信じる。夫婦や家族、職場の苦悶を全て知っておられる。その「神の愛」に全てを委ねて生きていきたいなぁ?!ありのままに・・・!。
 
今回もアクセスいただき有難うございます。
次週も、また、また、また、「また逢う日まで」を楽しみにしています。
 
 














 
 
 
 
 
              


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