初老牧師:友川栄
「それ行け!リリーフピッチャー」
ヨハネによる福音書の10章以下のところは、牧師が新しい教会に赴任しで就任式にて、よく読まれ解き明かされる聖書の箇所です。着任する全ての牧師が襟を正される聖書の一つでしょう。牧師は神の召しと信じて招かれた教会に赴く。大袈裟かもしれませんが、
骨を埋める思いで赴く。
しかし、数年で去らざるをえないことが起こりうる。重篤な病気に患う、妻の病やど
うしても生活ができずに辞任を決意する。教会内部が紛糾し、分裂を避けるために辞めることも。高齢のため退任する先生も。心痛む現実ですね。がしかし、過酷な試練に耐え続け、30年、40年以上も一つの教会で牧会をしておられる先生には頭が下がりますね。
数ヶ所の教会を牧会してきた私自身には、偉そうなことは何一つ言えません。「よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)というイエス・キリストの戒めのみ言葉で、自責の念を抱くことが多々あります。自分は羊である「教会員」を捨てきたのではないだろうか、と慙愧に堪えないことを今も味わっています。
しかし、ある時に、M・ルターの「預言者が100年預言をし、牧師として100年牧会しなければ、聖書を理解したとはいえない」という趣旨の言葉に大きな慰めを与えられました。ルターは聖書の深さとともに「教会形成」の難しさをよく知っていたのでしょう。優秀な牧師でも人間の力(話術、経験、才能、踏ん張り、教会管理などなど)で教会を立て直そうと躍起になる。不可能と知りつつもそれに走る。だから心身ともに疲労困憊する。行き詰る。
パウロは教会をして「キリストの体」と言っていますが、本当に「教会」も病む。だからこそ神の導きと支えがなければ立っていけない。長く牧会をすれば、利点も生まれましょうが、100年以上も同じ教会で牧会することは不可能です。それほど教会形成は難しい。
遣わされた教会で神のみ言葉に真摯に生き、み言葉を誠実に解き明かしを続けるならば、牧師の「在任期間」はさほど重要な問題ではない、と最近思うようになりましたね。クリスチャンが与えられるのも神の恵みですから・・・。ある種の開き直りでしょうか。要は、神に喜ばれるか否か大切なことなのですから。次世代に信仰のバトンを渡せれば善しとしましょう。田尻教会で何年牧師として続けられるかは「神のみぞ知る」ですが、神を畏れ、託された教会員一人ひとりを愛し、み言葉で共に養なわれることを願って歩んでいきたい、と思っています。
野球でたとえれば、全ての牧師・教会員も「リリーフピッチャー」と言えないでしょうか。私はいつも惨敗「リリーフピッチャー」の悔しさを味わってきましたが・・・。30年、40年以上同じ教会で牧師をなさった先生は差し詰め「完投ピッチャー」?。しかし、神の目からすれば完封「勝利ピッチャー」は皆無に近いのでは。牧師や教会員が勝利するのではなく、イエス・キリストこそ勝利者、「我が羊飼い」なのですから。命を捨ててくださった「イエス・キリスト」の愛に生きていきましょう。「リリーフピッチャー」に徹しながら?!。
アクセス有難うございます。次週、また、また、また、また、また、また、また、また?「また逢う日まで」を楽しみにしていますから。
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