初老牧師:友川栄
「喜び、悩み、支え合いながら・・・」
宮城北地区の教会では毎年交換講壇を行っています。登米教会の礼拝(10月28日)では
小林や休先生(鳴子教会牧師)が説教をしてくださいました。心から感謝いたします。宮城北地区は13教会(その他、気仙沼集会所)があるが、それぞれの先生は託された教会で毎週礼拝を守っておられます。多くの教会は同じ教会員を対象に礼拝を守っていることでしょう。
聖書に基づいて毎週、毎週、説教することはそう容易ではありません。同じ聖句でも、精読すればするほど説教の内容が違ってきますので。説教は「神の言葉」を解き明かすことですから、ほぼ不可能に近い。牧師は畏れながら語る、砕かれ、励まされながら語り続けているのです。真摯に聴いている人に勇気を与えられながら・・・。説教に上手い下手はありませんよ。最後は神が判断してくださるのですから。しかし、会衆の願い(励まされたい、癒されたい・・・)を適えようとの誘惑があることは否めませんね。牧師も人間ですから。
でも牧師は神の言葉を宣べる「預言者」であることを忘れてはいけませんよ。会衆の願いに心を奪われると小手先に走ってしまう。願いが適えられても、長い人生には辛いこと、悲しいことが続くもの・・・。人間の思い、祈り、叫び(無視はできませんが)に真実に応えてくれるのは神だけですから。神の働きを妨害しかねない。神が聴いていると信じて語るしかない。メーセッジの真意を当座は分からなくとも、後で人生の大きな糧となることもありますからね。
会津地区でも交換講壇がありました。鍛えられましたね。教会が異なると説教が難しい。聴いている人々がどう生きていて、何に悩み、苦しんでいるかが分からない。それぞれの先生が違う教会で説教することで、一つひとつの教会の連帯が強まる。教会には違う伝統があることを知る。異なる課題があることを分かち合う。牧師・信徒も神の挑戦を受ける。教会は「体は一つ・・信仰は一つ」(新約聖書:エフェソ4章4、5節)ということを・・・。
世間では同じ職務を長く務めると「ベテラン」と言われますよね。牧師(他の専門職も同じなのかも知れませんね)には「ベテラン」「新米」の区別はありませんよ。牧師に(これは牧師に限りません。人生は想定外のことが起こりますからね!)「慣れ」は禁物ですから。地域に「溶け込む」ことは重要ですが、「慣れ」に流されてはお仕舞いですぞ!。いつも「初めから始める」(K・.バルト)ことを肝に銘じて進みましょう。喜び、悩み、支え合いながら?!。
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