初老牧師:友川栄
「イエスこそ砦の塔」
マタイ福音書5章から7章までには、有名な「山上の説教」というイエスの教えが書かれています。弟子たちが行うべき大切な教えです。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(5:4)「兄弟に対して怒る者は裁判を受けねばならない」(5:22)「だれかがあなたの右の頰をうつなら、ほかの頰をも向けてやりなさい」(5:39)「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」などは有名な教えの一つでしょうが、一つひとつの教えは実行不可能な教えと
思うのが多いのではないでしょうか。
思うのが多いのではないでしょうか。
一つひとつの教えを行わないと「クリスチャン失格」という意味なのでしょうか。私はそうは思いません。私たちが出来ないことを、イエス・キリストが命を捨て実行したのですから。私たちは失敗したり、躓いたり、嘆いたりしますが、イエスは時には叱責し、励まし、背中を押して下さる、それを信じればいい。
「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかといって思い煩うな」(6:31)との教えもありますが、私たちは日常生活で思い煩うもの。衣食住に関することに関わる問題は他人事ではありません。生活に不自由を感じている人にとっては死活問題・・・。しかし、イエスは「あすのことを思い煩うな。あすのことは、あす自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日で十分である」(6:34)と断言する。
他人事のように感じますが、的を射た警告ではないでしょうか。思い煩い続けても問題は解決しません。目先が真っ暗になると、「おたおた」し課題が巨大化する。冷静に考える余裕すら失い「自分で何とかしよう」「我慢をすれば」などと自力で気張る。しかし自分で頑張るほど「出口が見えなく」なえるもの・・・。報われないと「他人のせい」にする。他者を怒鳴り散らしたりするものでは。その結果自分の殻に閉じこもってしまい自我の殻に呑み込まれています。
ここで注意しなければいけないことは、実行不可能と思う教えを説いたイエス・キリストは十字架に架けられ亡くなったという事実です。十字架に架けられ罵声を浴びせかけていた群衆を赦した。イエスは彼を捨てて逃げた脆弱な弟子たちを、復活した後にイエスの教えを説く使徒として用いる。今の風潮では「駄目人間」のレッテルを張られると、一生そう見られるではありません?。しかし、イエスは違う。イエスを信じて弱さと罪を悔い、赦しを乞うと別の世界を見せてくれる。無から有を造り出す神の御旨です。神には「人間失格」は皆無。神の教えを成就してくださったのはイエス・キリストのみ。イエス・キリストの恵みに生きる時に、不思議な道が拓かれる。イエスに生きていきたい。イエスは砦の塔となってくださったのですから・・・。