「十字架への道」
友川栄
マタイによる福音書27章32~44節 2021年 3月28日(日)
マタイ福音書27章32節以下の記事に主イエスが歩まれた「十字架への道」が記されている。それは単に主イエスのみ苦しみが書かれているだけではない。主イエスに従うキリスト教信仰の精髄が暗示されていると受け止めたい。主イエスが十字架につけられる時に一人の人物が登場する。マタイ福音書は「シモンというクレネ人」とあるがマルコ福音書は「アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人」(15章21節)と記す。ローマ書には「主にあって選ばれたルポスと、彼の母とによろしく、彼の母は、わたしの母でもある」(16章13節)とある。
このシモンは恐らく後にキリスト者となったのではないか。このシモンは自分から十字架を負うたのではない。半強制的に十字架を背負わされたのだ。キリスト教に入信する機会は人それぞれの理由があろう。だが、キリスト教信仰には喜びと感謝と同時に苦悩や悲しみや忍耐が伴うことを忘れてはいけない。シモンは主イエスの十字架の重みを実感したのではないか。後に主イエスが語った「神の愛」の深さを徐々に納得させられたのではないか。
他方、群衆や祭司長、律法学者、長老たちは主イエスを愚弄した。彼は「神殿を打ちこわして三日目にうち建てる者よ、もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」(40節)とののしる。十字架からおりてきたら信じるとさえ言う。W.・リュティは「高い地位の者たちは、十字架に向かって『自分を救え』と叫ぶ。群衆も、彼らの叫びに声を合わせる。兵士たちも『自分を救え』と叫ぶ。・・・「自分を救え」・・・これが私たちの人間の叫びである。」(この日言葉をかの日に伝え:3月31日黙想)と述べる。だが、主イエスは十字架から降りることはしなかった。「もし神の子なら、自分を救え」とは主イエスが悪魔から誘惑された時の誘いの言葉である。「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」(マタイ4章3節)。人間は奇跡や富や名声に弱い。だから、何とご利益をもたらす宗教が多いことか。これは他人事ではない。かつて、キリスト教でも「教会成長」という言葉が跋扈した。あたかも、教会員が多ければ多いほど教会は良いという思考である。昨年から新型コロナ感染で世界中が危機に瀕している。まさに、三密への警鐘である。それだから、私たちは主イエスが歩んだ「十字架への道:神の愛:受けるより与えるほうが幸いである」という狭い道を歩んで行きたい。