「主イエスに学べ」
マタイによる福音書11章28~30節
2021年 5月30日 友川 栄
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11章28節) 田尻教会では聖餐式を毎月の第一日曜日に行っているが、聖餐式でよく読まれるのがこの御言葉である。この御言葉は4年ほど前に説教を行っているが、今回もこの御言葉の深さに驚愕させられた。
「休み」を(Moffatt訳)は「I will refresh you」と訳している。単なる「休み」ではない。再び新たにしていただくのだ。リフレッシュしていただくのだ。それに「休ませてあげよう」は(Williams訳)は「I, yes, I will lead you into rest」と原文忠実に訳す。原文は「このわたしが」と「わたし」を強調しているのだ。つまり主イエスだけが新たな力を与えて下さるのだ。自分で修練を重ねて到達するものでは無い。次に「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(29節)と続く。
「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」に留意したい。主イエスが共に軛を担って下さるのだ。自分の好き勝手に生きて行くのではない。主イエスが共にいて下さるのだ。また、信仰を共に歩んでくれる信仰の仲間がいることも忘れてはいけない。時には過ちを指摘してくれる友や、悲嘆の只中にある時に、ただ傍にいて悲しみを受け止めてくれる友を大切にしなければいけない。「聖徒の交わり」とはそれ程深い。
E.H.Petersonは「わたしと共に歩み、わたしと共に働け――わたしが如何に為しているかを見よ。恵みの自然なリズムを学べ。」と大胆に訳す。つまり、キリス者とは主イエスの御許に幾度も立ち戻り、主イエスの軛を負い、主イエスの恵みに学び続ける群れなのだ。「わたしは柔和で謙遜な者だから」とあるが、弟子たちは主イエスが最後の晩餐を摂る前に弟子たちの足を洗ったことを忘れなかっただろう。いや、更に主イエスが十字架で命まで捨てて下さったことを一時も忘れることはなかったと思う。主イエスが「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)も同じだ。
だが、弟子たちは十字架を目前にした時、主イエスを見捨てたのだ。人間は最後には自分が可愛いのだ。しかし、主イエスの慈しみは人間のエゴイズムを遥かに超えて大きい。復活して主イエスは弟子たちをして「神の愛」を伝える器としたのだ。だから、わたしたちも主イエスの御許に幾度も立ち戻り、主イエスの軛を負い、主イエスに学び続けて歩んで行きたい。たとえ困難なことや試練や悲しみなどに遭遇しようとも、感謝しながら生きて行きたい。