2021年8月8日日曜日

【説教】「人を裁くな」 マタイ福音書7章1~5節 2021年 7月4日

 

「人を裁くな」 


マタイ福音書7章1~5節

2021年 7月4日 友川 栄


  マタイ福音書7章1~5節は初代教会のキリスト者に対しても警鐘を鳴らし続けた主イエスの教えであったことが分かります。今でも私たちの歩みを導き続ける大切や教えですね。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分が裁く裁きで裁かれ、自分で量る秤で量り与えられる。」(1,2節)引照付き聖書では、2節に多少の違いはありますが、同じような内容が記されています。ローマ書2章1節、14章3,4節、コリントの手(1)4章3~5節それにヤコブ書4章11,12節です。全て見る暇はありませんが、ローマ書2章1節、14章3,4節だけを,皆さんと読みたいと思います。どうぞ開いて下さい。どうでしょうか。これは主イエスの教えを知っていたのでしょう。

  「人を裁く」という言葉を読んで思いますのは天に召された三浦綾子さんが書いた「光あるうちに」という書籍です。三浦さんは次のように述べています。人間には人を見る時に二つの量りがあるということです。自分を図る秤と他人を量る秤は違うというのです。子供が茶碗を壊してしまうと、何でそうのような事をしたのかと怒鳴りつける。でも自分で不注意で壊したら「なんで」まあ「やっちゃた」と舌を出して終わりにしてしまう。また、他人の事の噂さ話に花を咲かせる。

  それもあること無いことを、つまり悪口を延々と続けるのです。だが、自分が何かの拍子に悪口を言われると悶々として夜も眠らないほどになるというのです。他人には厳しく自分には優しい、あるいは逆にこともあるのでしょうか。これは他人事ではありませんね。

  私は某教会(教会の名誉にかかわることなので敢えて教会名を出しませんが)から毎年、私の誕生日や妻の誕生日のカードが送られてきています。私自身のエネルギーが無かったことが第一の理由なのですが、辞めさせられたという思いが大きくてどうしても返事や葉書を書く事に抵抗があったことが正直なところです。数日前に、某教会から会堂、牧師館の修繕の趣意書が届きました。些細なことに抵抗することなく短い期間でもお世話になった「主のみ体なる」教会です。多少、複雑な思いがありますが、僅かばかりでも献金を送るつもりでいます。それも、今日の御言葉が私の頑なな思いを溶かしてくれたのです。

  さて、今日の御言葉に戻りますが、説教を準備する時には、ギリシャ語原文を日本語訳聖書、英語の聖書を読んで準備します。前田護郎氏が書いた「新約聖書」は「人を裁くな」の注に「秩序維持の裁判が禁じられるのではなく、人間が自らを神の位置に置く傲慢の禁句である」と述べています。前田氏の人間理解は深く鋭いですね。他者を裁くとは自分が絶対に正しい、相手が間違っているという人間の傲慢なのでしょう。「あなたは、兄弟に目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目に丸太が(口語訳:梁)に気づかないのか。(ある英訳は:While you pay no attention to all the beam in yoursと訳す)兄弟に向かって『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」(3,4節)と書いています。

  4節のギリシャ語原文では「どうして言えようか」との後に「カイ・イドゥ:敢えて原意に近く訳せば:しかし、見よ、丸太があなたの目に中に」となります。今日与えられた御言葉を学びながら一つ懺悔させられたことがあります。それはキリスト者とは、終末に神の裁きに立たせられるということですね。信仰においても、いや信仰者だからこそでしょう、絶対に間違いがないと頑迷になると正しい道から逸れてしまうということです。真の裁きは神が為すことであり、人間が自信満々で自分は間違いがないと考え始まると危険なのですね。コリントと信徒への手紙(一)4章3~5節を読んで見て下さい。「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、すこしも問題ではありません。・・・自分に何もやましいところはないが、それでわたしが義とさているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるめでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠された秘密を明らかにされます。そのとき、おのおの神からお褒めにあずかります。」とあります。何と素晴らしい御言葉でしょうか。人間的な損得や利害関係を一切ない唯々全てをご存じの神に委ねて行く生き方ではないでしょうか。全てを公平に裁く神を畏れ、何物にも捕らわれない自由な歩みがこの御言葉に記されていないでしょうか。全てをご存じの神を信じて一歩一歩進んでいきましょう。祈りましょう。