「ただ、お言葉をください」
マタイ福音書8章5~13節
主イエスは5章から7章まで「山上の説教」を記すが、8章1節以下では重い皮膚病を患っている人を癒すのである。現代でいうハンセン病である。当時はこの病にかかると「私は穢れている」と自ら叫び病を知らせなければいけなかったのだ。社会から隔離された病である。ある聖書学者はこの病に患うと2メートル以上距離を取らなければいけないと述べる。この病気になった者が風上にいれば50メートルほど離れなければいけないとある註解書に書いてありました。それ程怖い病気だったのですね。
今は新型コロナ感染で世界中が混乱し続けています。コロナのワクチン接種が速度を早めていますが日本はオリンピック・パラリンピックが今週から始まりますが如何なるのでしょうか。ワクチンを接種したら全てが大丈夫という訳にはいかないようですね。恐らくマスク着用は当たり前になるのでは危惧します。距離を取り、座る、換気は定期的に行うことが日常化していくのでしょうか。兎に角、過信は禁物ですよ。
だが、主イエスは手を差し伸べ、触れて癒すのだ。これは驚愕な出来事である。そして、8章5節以下の記事は主イエスが百人隊長の僕を癒すのだ。多くの学者はこの百人隊長はユダヤ人ではないと推測する。謂わば異邦人です。
ここにも主イエスの驚くべき福音が書かれていないだろうか。ここに主イエスの慈しみの深さと愛が暗示されています。人間を人種や偏見で見る当時の価値観に挑戦する主イエスの姿勢が見て取れます。ありのままに受け、赦す主イエスの姿がここに書かれていますね。ここにキリスト教信仰の精髄が書かれていると受け止めたい。この百人隊長はまず「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と主イエスに「近づいて来て懇願し」とあります。
主イエスの御許に一歩歩み寄るのです。信仰とは主イエスの御前に歩みよることから始まる。主イエスに歩みより自分の苦難や問題を話せば良いのだ。人生には色々努力しても達成できないことがあるですね。克服できないことが沢山あるのです。病気や試練ですね。私たちは好んで病気になる訳ではありません。何時か病気になる。でも、病を通して支えられる人々の有難さが徐々に分かってくるのですね。主イエスは必ず神の御心を示してくださる。それに対して主イエスは「わたしが行って、いやしてあげよう」(7節)と述べる。佐藤研氏は「私が行って、彼を治すのか」と疑問形に訳す。佐藤氏は注に「異邦人ないしはそれに隣接する存在である百人隊長の家に、イスラエル人であるイエスが入ることに対する懸念を示す疑問ととる」と述べる。
主イエスは異邦人であるこの百人隊長の願いを一旦断るのだが、この百人隊長の偉いところは、一度や二度で諦めないことである。彼は「主よ、わたしは自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃてください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(8節)と述べる。更に「わたしにも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人の『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、その通りにします。」(9節)と続ける。
佐藤研氏は注に「つまりそのくらい、権能ある者の言葉が下に伝わる徹底さは良く知っている、同じように、快癒を命じるイエスの言葉も下達されるだろう、という論理。」百人隊長は主イエスに全幅の信頼を抱いているのですね。神を畏れているのですね。全てをご存じの神に導かれ生きて行くのです。私たちも主イエスに聖書を通して「ただ、お言葉をください」と願いながら、与えられた御言葉を味わい咀嚼し、それに生かされる者になって行きたいですね。祈りましょう。