2021年10月17日日曜日

【説教】 「備えて、待て」2021年10月17日 マタイ福音書25章1~13節

「備えて、待て」 友川 栄

2021年10月17日 マタイ福音書25章1~13節

 

    マタイ福音書25章1~13節の記事は24章から続くこの世の終わりを説く「終末」の教えである。初代教会のキリスト者は主イエスの「再臨信仰」に生きていた。今日のキリスト者にもこれは求められているのではないだろうか。

    E.H.ピーターソンは「聖書に生きる」の5月23日の黙想で、日々の生活は「イエスの再臨」で確約されているために、不安や雑念を捨て生きて行けという趣旨を記している。何と鋭い黙想だろうか。主イエスは「天の国」を花婿を迎える十人のおとめにたとえる。「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」(2節)とある。ある英訳は愚かを「foolishthoughtless, without forethought」と訳す。特に「forethought」に留意したい。日本語では「深慮、用心、見通し」という意味。愚かとか賢いとは頭が良いとか悪いと考えてしまうが、ここではそういう意味ではない。

    愚かなおとめは予備の油を準備していなかったのだ。逆に賢いおとめは将来のために予備の油を備えていたのである。だが、花婿がなかなか来ないので、ついつい居眠りをしてしまう。そして真夜中にようやく花婿が来る。すると愚かなおとめたちは「油をわけてください。わたしのともしびは消えそうです」(8節)と賢いおとめたちに懇願する。賢いおとめたちの返答は「分けてあげるほどはありません。それよりも、店に行って、自分の分を買ってきなさい」(9節)と言う。冷たい言葉と感じられないだろうか。主イエスは愛を説き、愛に生きたお方である。温かい返答があるのではと思わないだろうか。私も以前そう感じていたが、原文を読んで「はっと」した言葉がある。佐藤研氏も「私とあなたたちの分としては決して十分ではないでしょう」と原意に近く訳す。「私とあなたたちの分」とあるのだ。

    愚かなおとめたちが油を買いに行っている間に花婿が来て婚宴に参加出来なくなってしまう。「御主人様、御主人様、開けて下さい」(10節)と扉を越しに頼むが、主人に拒絶される。厳しい御言葉である。これは明らかに「イエスの再臨」の譬えである。主イエスの再臨は神のみぞ知るである。人間の叡知を遥かに超える事柄である。

    だが「主イエスの再臨」に備えることは出来るのではないだろうか。それは14節以下に書かれている譬えに具体的なことが書かれていると私は思う。私たちはそれぞれ神から賜物を頂いているのである。五タラントンか、2タラントンかあるいは1タラントンかも知れない。その賜物を生かさなければいけないのだ。1タラントンをいただいた者が、その賜物を地に隠したような怠け者ではいけない。兎に角、神から頂いた賜物を生かさなければいけない。次に31節以下に書かれているように最も小さい者を支える生き方が求められる。そのような人々を愛する生き方が求められる。私たちはそのような生き方をしているだろうか。それが「主イエスの再臨」を迎える備えではないだろうか。そのように、主イエスが再び来るその時を備え、待ちたい。祈りましょう。