2022年2月6日日曜日

【説教】「まず神の国を求めよ」マルコによる福音書4章13~20節 2022年2月6日

 「まず神の国を求めよ」 

  マルコによる福音書4章13~20節 2022年2月6日

 

      マルコ福音書4章13節以下にキリスト者の歩むべき急所が書かれていると受け止めたい。当時は種を蒔く時には地を耕してから種を蒔くことはしなかった。そのために種は道端や石地や茨や良き土地に蒔かれることがあった。この譬え話は分かりやすいと考えられやすいが、本当にそうだろうか。

        主イエスが「そして『聞く耳のあるものは聞きなさい』と言われた」(9節)とあるように、神を信じていく時に幾度も立ち戻らなければいけない御言葉ではないか。実は、13節以下の御言葉は初代教会の激しい迫害や艱難などが起こり信仰を捨てる人々を励ますために、当時のキリスト者の教えがここに書かれている解説する学者も多い。確かに初代教会時代は想像を絶するようなキリスト者に対する迫害や困難があったことだろう。だが、現代でも信仰を歩み続ける時に、艱難や富に誘惑や思い煩いなどに遭遇しないだろうか。

        E.H.ピータソンが黙想で述べるように「キリスト者は目では見えない、耳でも聞こえない神を生活の中心に置いている」のである。目で見て確かめ、耳で聞こえることなどが優先するこの世である。その中で見えない神を真摯に信じて行くのがキリスト者である

        道端に蒔かれた種を「サタンが来て奪い取る」(15節)とある。サタンとは神の存在を否定するものである。コロナ感染の勢いが今も止まらない。私は勿論医学や科学は否定しない。医学が発達して一日も早く効果的な治療薬が開発されて欲しいと願っている。だが、科学が全て正しいとは言えない。

        また、主イエスは道端に蒔かれた人々を「御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが、自分には根がなにので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」(16,17節)と述べる。「つまずく」に留意したい。主イエスが12弟子たちと最後の晩餐を摂った後に、「あなたがたは皆、わたしにつまずく」(14章27節)と語る。ペトロは「たとえ、みんながつまずいてもわたしはつまずきません」(14章29節)と豪語する。でも、この後を読み進んで行くと分かるが12弟子たちは主イエスを見捨てたのだ。

        茨に蒔かれた人々は「この世の思い煩いや富の誘惑や、その他いろいろな欲望が入る込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」(19節)とある。主イエスが山上の説教で語った自分の命のことで何を着て何を着ようかと思い悩むなと話したことを忘れてはいけない。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えられる」(マタイ6章33節) まず神の国(支配)を信じて生きて行きたい。蒔かれた種が100倍に実ることを信じながら