「主イエスの御名で祈り続けよ」
ヨハネ福音書16章16節から24節までの記事は主イエスが過酷な迫害に遭遇していたキリスト者に述べた慰めの勧めと受け止めたい。「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが(佐藤研氏訳は:看なくなり)、またしばらくすると、わたしを見るようになる」が繰り返し述べられている。弟子たちは主イエスの教えが全く理解できなかった。
「見なくなる」とは主イエスが十字架で亡くなるという意味である。「またしばらくすると見るようになる」とは主イエスが復活され、今も聖霊を通して出会えるという意味だろう。キリスト者は主イエスが今も生きて働いると信じているのだ。
また、主イエスは「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」(20節)と述べる。神を信じるとは苦難や悲しみが無くなるということではない。人生はそう甘くない。若者には若者の苦悩がある。高齢者には何とも表現できない孤独感がある。だが、神を信じる者には艱難の只中でも生死までも支配しておられる神の示す逃れる道や希望がある。
主イエスは次に子供を産む女性にたとえる。私は三人の子供が授けられたが、妻の出産の痛みは私には全く分からなかった。分娩室の近くの部屋で唯々おろおろするだけだった。出産が近づくにつれ、妻の叫ぶような悲鳴が今でも鮮明に覚えている。しかし、子供が生まれると喜びと穏やかな妻の顔が忘れられない。
更に、主イエスは「・・今はあなたがたも悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びを奪い去る者はいない」(22節)と続ける。最後に、主イエスは「その日には、あなたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何か父に願うならば、父はお与えになる。今まで、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(23、24節)と述べる。
「わたしの名によって」をある英訳( The Ampilified Bible)は出エジプト記3章14節を引照している。モーセが召命を受ける神の言葉である。天地万物を創造した神ご自身である。主イエスの名によって祈るとはそれ程重く深い。主イエスの名によって祈るとは全てをご存じの神の御前に立たされることである。私たちの過ちや怠惰や傲慢や浅薄などを知っておられる神と出会う事である。ある意味で神の裁きを示されることもあろう。あるいは癒しや慰めを与えられることもあろう。
「願いなさい」をある英訳は「願い続けなさい」と訳している。一度や二度では駄目なのである。一週間、数年、数十年、神の御心がなるよう祈り続けなければならない。神は必ず私たちの祈りを聞き届けて下さるからだ。