「仕える喜びに生きよ」
2022年6月19日
ルコによる福音書1章29~34節
マルコ福音書1章29~34節はマタイ、ルカ福音書にも並行記事が書かれている。初代教会に流布されていた口伝に基づくとされている。シモン(ペトロ)が伝えた神の驚くべき出来事が書かれていると受け止めたい。いや、家族伝道の急所が暗示されていないか。
シモンとシモンの兄弟アンデレとゼベダイの子ヤコブとヨハネは1章16節以下に書かれているように、既に主イエスの弟子となった。彼らは「わたしについて来なさい」との主イエスの招きに、網や父や雇人を捨てて主イエスに従う決断をした。だが、主イエスはシモンとアンデレの家に戻る。シモンの家族が主イエスに嘆願したのだろうか。
そこで不思議なことが起こる。「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスはそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」(30、31節)とある。「もてなした:奉仕しや衣食住の世話をする意味」とは継続を意味する未完了過去形なのだ。
シモンの義理の母はこの後、主イエスをもてなし続けたのだろう。一度や二度ではなく繰り返し、繰り返し何度も、もてなし続けたのではないか。主イエスが十字架に架けられた時に、その凄惨な様子を見ていた人々を「この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話(もてなすと同じ言葉)をしていた人々である」(15章41節)と記す。
シモンの義理の母は主イエスに仕える喜びに生きたのではないか。更に、主イエスがご自身の命まで賭けて語った大切な教えを忘れてはいけない。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、いちばん上になりたい者はすべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(10章43~45節)「仕える」との言葉は「もてなす」と同じ言葉である。主イエスの十字架の救いと贖いである。シモンの義理の母はそこに賭けたのではないか。
驚くべきことはシモンの妻である。パウロはコリント書(一)の9章5節にパウロは「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファ(ペトロ)のように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」と述べる。ペトロの妻はキリスト者となっている。主イエスに仕え続けた母親の姿勢が何らかの影響を与えたのではないか。神を畏れ、他者に喜んで仕えることが伝道の一歩であることを忘れまい。