初老牧師 友川 栄
「福音宣教の勘所」
伝道とは「天の国が近づいた」を宣べ伝えることです。「天の国」とは「神の支配」のことです。国や地域を意味するものではありません。艱難でも、試練の最中でも、
神が「今、ここに」おられるということ。それを唯素直に「アーメン:その通りです」と受け入れればいい。「天国は近づいた」はイエス・キリストが語った最初の教えです。誤解を恐れずに言えば、イエス・キリストの十字架と復活にも「天の国は近づいた」という教えが込められていると言ってもいい。
神が「今、ここに」おられるということ。それを唯素直に「アーメン:その通りです」と受け入れればいい。「天国は近づいた」はイエス・キリストが語った最初の教えです。誤解を恐れずに言えば、イエス・キリストの十字架と復活にも「天の国は近づいた」という教えが込められていると言ってもいい。
しかし、伝道はそう容易ではありません。イエスが12弟子たちを派遣する時に「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである」(マタイ10:16)と警告している通りです。田尻での伝道も簡単ではありませでした。今後も想定外の苦難、試練が待ち受けていることでしょう。神を信じる人が与えられないかもしれません。がしかし、マタイ10章1節から16節までのところに「福音宣教の勘所」が書かれていると、信じています。イエスはまず「十二弟子を呼び寄せて、・・・あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった」(マタイ10:1)と書いています。
12弟子たちはイエス・キリストの元に呼び寄せられたのです。つまり神を拝する礼拝と言い直してもいい。まず神に招かれ神の御心を聴くことの大切さです。権威はイエスからいただくもの。自分の権威で動いたり、人を動かしたりするのではありません。繰り返し、繰り返し、神のみ言葉を聴く必要があるのです。人を愛することも長い修練が必要なのです。言葉や行動の適切なチャッチボールです。弟子たちはイエスからそれを学んだのではないでしょうか。失敗や行き違いを通して体に身に着くまで、神の愛の真髄を会得した筈です。12弟子たちは土壇場でイエスを捨ててしまう。イエスの愛を自ら断ち切ったのです。しかし、イエスは彼らの大失態を赦し、彼らを用いて神の愛を伝える器として選んで下さったのです。
更に、イエスの勧めは厳しい。この世で不可欠なお金や、くつ、つえ(強盗から身を守る武器)なども持って行
くなという。ここまで徹底すると、私は正直撤退したい思いにかられます。しかし、先を読むと分かりますが、イエスは無頓着な行動を勧めているのではありません。むしろ、人間は富や必需品を手に入れると、意欲が削がれ振り回されるのではありませんか。その執着心を「捨てる」ことで、突破口が開けることが起こり得るのですから・・・。神は不思議なように相応しい助け手を与えてくださる。他人にお世話になることで、お世話した人が祝福される。平安と充実感がに満たされることもあります。「その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい」(10:12)ここから伝道の第一歩が始まるのでは? あとは神にお任せしましょう。