2012年7月2日月曜日

牧師のひとり言 NO6

                                   初老牧師:友川 栄

「上(神)を向いて歩こう・・・」  

  イエスは弟子たちに「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。」(ヨハネ14:18)と語っています。訣別説教でイエスが語った言葉。ユダヤ教から異端と宣告され、迫害が激しくなる時代です。そんな時でも、クリスチャンは神の御霊(聖霊)が共にいることを信じて生き続けていた。執拗な迫害に耐えきれず信仰を捨てる人々がいたらしい。これはどの時代でも起こりうる。ある方は日本のクリスチャンの平均寿命は
僅か数年?と説く。入信するものの人間関係で「衝突?」や「誤解?」で教会から離れる。他人ごとではありません。

「教会」といえども「罪人」の集い。全てのクリスチャン(牧師も含め)も間違いを犯す。これを弁えていなければいけません。私も「いい加減」なクリスチャンでした。教会から離れ「無教会信者!」などと言い訳をしていました。しかし、時宜に叶った絶妙な「神の介入?」で今日の自分がある、と感謝していますね。あなたは「間違っている!」と激しく叱責してくださった某先生や友人、その時は「悶々」としましたが・・・。人間関係というのは一旦こじれると、修復するまでに長い時間と多大な労力を要する。そうではありません?。

クリスチャンも浮き沈みを味わう。「笑顔」を絶やさない「クリスチャン」こそ「立派なクリスチャン」と信じ込んでいる人を見ると、可哀相だなぁ、と思う。生命に関わることには、怒りを込めて「駄目!」と指摘しないと。怒りの「常習犯」では困りますが。信仰もさまざまな病に患う。「倦怠病?」「熱中症?」「潔癖症?」「健忘症?」などなど・・・。「熱中症?:熱狂的な人」ほど「人の欠点」が気になって仕方がない。弱さや欠点を棚に上げ、他人の「弱さ」を攻撃する。自分だけが正しいかのように。 「潔癖症?」の人は他人や教会を革新できるなどと意気込む。「教会」は神の体。「某牧師」「某信徒」の才能で立て直せる共同体ではありません。人間も同じですよ。反発を買うだけ。

内部が「荒れ狂って」いる教会でも、キリストが働き、支え、導いてくれると信じる人が「二人または三人」がいれば真の教会ですから。神を見上げ、み言葉に聴き続けていくことで、「教会」が「教会」となっていく。とてつもない時間がかかるもの。「倦怠病?」も侮れませんよ。真面目なクリスチャンほど「倦怠病?」に陥る。そんな時は休めばいい。自分は「駄目やなぁ!」と過度に責めないこと。自責の念が深くなればなるほど、坩堝にはまってしまう。完璧な「クリスチャン」「教会」などあり得ません。いつも「途上」ですから・・・。神は、弱い人々、欠点のある人々、病の人々を用いて神の教会を立たせる。傷ついた人々を癒す。「上(神)を向いて」歩こうよ、一歩、一歩と・・・。イエスが「孤児にはしない」と言われた約束を信じて。