初老牧師:友川 栄
「狭い門から入りなさい」
下関にいた時、K・バルト(20世紀の最大の神学者)の和解論(邦訳)を某先生に引っ張られるように精読してきました。言葉では表現できない感動と自分の信仰理解の甘さをいやというほど知らされましたね。兎に角、聖書の読みが深い。聖書の釈義の緻密さには、いつも白旗を掲げ
降参ばかりでした。バルトの凄いところは、神学に限らず、音楽、哲学、政治などに驚嘆するほど造詣が深いところ。単に知識の量が膨大ばかりではありません。屁理屈をこねてばかりで実行しないという書斎の人でもない。このような人が何と多いことか。
降参ばかりでした。バルトの凄いところは、神学に限らず、音楽、哲学、政治などに驚嘆するほど造詣が深いところ。単に知識の量が膨大ばかりではありません。屁理屈をこねてばかりで実行しないという書斎の人でもない。このような人が何と多いことか。
時代の流れを的確に掴みながらブルドーザーのように悪魔の力(ドイツのヒットラー)に抗した人物でもあります。バルトは「聖書とともに新聞を読め」と勧めている。含蓄のある言葉ですね。「聖書オタク?」では駄目だということでしょう。聖書を精読することも不可欠ですが、生きている「今、ここ」を読みぬく力を磨けということですよ。働き、学び、動く。動き、学ぶ、働く。簡単なようで意外と難しい。しっかりした書籍、雑誌、小説を読み行動することですから。
テレビも番組や映画も小馬鹿にしてはいけませんぞ。楽しみながら、堪能する。最近「速読」「遅読」等など言われていますが、私は「立ち読み」ですよ。いい加減な拾い読み?。しかし、これでも古典と言われる本は牛のように「超遅読」を心がけていますので、誤解なく。今も、努めて和解論を読み続けています。バルトの「教会教義学」はドイツ語で何と1万ページに届くほど。邦訳はそれを遥かに超えていますので、全巻精読するまでにはモーセのように120歳以上生きないと無理でしょうなぁ。天国?で読んでいたりして・・・。許されれば、皆さんと読みたいですねぇ。「なんだべ~これ?」「さっばり、わげわがんねぇなぁ?」などと頭(私の脳は空っぽですが?)を捻りながら。
さて「信仰とは何?」「教会とはどういう所?」「救いとは?」と問われたらどう答えるでしょうか。それは牧師先生の仕事で、先生に任せておけばいいいと考えていないでしょうか。どの専門職でもそう思う人が多いのでは?。「信仰」「教会」「伝道」「生きる」などは、日ごろ「聖書」を読み、平凡な「日常生活」を通し、悩み、悲しみ、喜びながら、一人ひとりが体得していくものなのではないでしょうか。人それぞれが自分なりに会得していくもの。しかし、全て100%分かると豪語する人は要注意ですぞ。人生は甘くありません。「狭い門から入りなさい」(新約聖書:マタイ7章13節)と語るイエスの言葉は、人生の重みと真理を見透かしていますね。でも、「狭い門」に入り進んでいきましょう、道が狭く険しくとも・・・。神が支えてくれることを信じて。