初老牧師:友川 栄
「ヴィジョンは神から」
最近どういう訳か「教会」「信仰」「救い」「伝道」とは一体どういうものなかが、よく分からなくなってきています。「それでも牧師?」と詰問しないでくださいよ。強面でも心は「繊細」で「心が折れやすい」牧師ですので。聖書を精読すればするほど、何も知らなかったという心境ですかね。牧師になって今年の4月で33年目になりますが、何を学んできたのかと自問自答している昨今ですわぁ。聖書はそれほど難解で、不思議な書です。順風満帆なときは響かない。聖句が「さっと」素通りしてしまう。
八方塞がりに遭遇した時に、初めて分かってくる書物ですね。宗教改革者のM・ルターは聖書を「祈りと黙想と試練」をもって読めと書いていますが、的を射た卓見。底が見えない「試練」に遭遇した時に「聖書のみ言葉」がそそり立つ。み言葉が魂を揺り動かし、一人ひとりの背中を押す。進むべき道が示されることも。底が見えない試練でも、神の導きと喜んで引き受けることが出来る。本当にそうなのですよ。
牧師が教会に赴任すると、よく問われるのは「先生のヴィジョンは?」です。「教会」は世俗的な「ヴィジョン」(経営や効率などを優先する思考)を掲げると「危ない!」。非常識では困りますが、牧師個人の才能や経験等で教会を形成できると驕ると小手先に走ってしまう。「教勢」(伸びることにこしたことは無いのですが)や「居心地の良さ」(居心地が悪いのも困りますよね)が「真の教会」の価値判断の基準となりかねない。人口の多少に関係なく、この誘惑は強いですね。地道にやっても、結果が計れない世界ですから?!
パウロはその点よく弁えていましたね。パウロが福音の種を蒔いたコリントの教会のクリスチャンに対して「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(1コリント3:6)と記しています。コリントの教会は、パウロが伝道した教会です。パウロが福音の種を蒔かなければ教会は立たなかったでしょう。しかし、彼はそれを決して誇ろうとしません。教会を成長してくださるのは神だけだと堅く信じている証拠。能弁なアポロも陥りやすい驕りに、暗に警鐘を鳴らしているのです。
教会は神だけが建て上げる。クリスチャンは神から与えられた賜物で奉仕するだけですよ。「こつ、こつ」と出来ることを為すのみ。いつか結実するのを信じて。それに賭けていくだけですよ。田尻教会・登米教会の牧師として、これを肝に銘じていきたい。「どうすたらいいのっしゃぁ?」「わがんねぇなやぁ?」と唸りながら・・・。時には、全てを神に任せ「ぼ~」として? 「それを言っちゃお仕舞いよ!」でしょうか???