初老牧師:友川 栄
「恵を数えて・・・!」
田尻教会の牧師として着任して早いもので約2ヶ月半が経とうとし
ています。着任して驚くことは余震がぼ毎日続いているいうことです。しかし、ここに住んでいる方々は慣れているのか、気にしていない様子。下関では分からないことですね。1月以上も前に、宮城県の南三陸町に行きました。
さて、イエスの12弟子の4人は漁師です。12弟子の1/3人が漁師ということになります。ペトロはその中の一人です。漁師は自然との闘いです。プロです。素人には分からないことが多々あることでしょう。そのペトロはイエスに「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を立てる」(新約聖書マタイ16:18)と言われたのですが、土壇場で「イエスなど知らない」と嘘をつく。彼は失意の中、故郷のガリラヤへ戻るものの、意欲を失い仕事どころではなかったと思う。大きな挫折を味わったペトロに復活したイエス・キリストが現れる。
そして「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(ヨハネ21章6節)と語る。聖書に親しんでいる人は「おやっ?」どこかで読んだ記事と思うでしょう。イエスが十字架刑で亡くなる前、ぺトロが弟子としてイエス・キリストに弟子とされるときの記事(ルカによる福音書(5章1節以下))に酷似しています。イエス・キリストは夜通し漁をするものの、一匹の魚もとれないペトロに「沖に漕ぎ出し網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ5章5節)と促す。ペトロはイエスの言葉を半信半疑ながらも網を降ろす。すると多くの魚が網にかかるのです。
彼はイエスへの信頼が如何に薄い者であるかを認め「わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5章8節)と懺悔する。イエスはその罪深いペトロを弟子と選ぶのです。イエス・キリストの選びは、私たちの選択基準とは全く違います。出来るか出来ないか(成績や業績?)で選ぶのではない。イエスの信頼で(愛!)で選ぶ。その出来事が、イエスが死から復活した後に(ヨハネによる福音書21章1節以下)再現される。ここではイエスのお言葉を信じて網を降ろすと、153匹の魚が取れたと書き残しています。
魚を数えたのです。「一匹」「二匹」・・・と数えた。大漁なら魚の数を数えないのが普通な筈ですよね。それを正確に数えたということは、一匹、一匹が「恵み(奇跡!)」と思えたからでしょう。私たちは「生きている」「歩ける」「呼吸ができる」「食べれる」ことを「恵み」と受けとめているでしょうか。当然と考えていません?。平凡な生活を送れることが、実は「恵み」なのでは?。違います?些細なことを「恵み」「奇跡」と受けとめられたらいいなぁ。「初老」も感謝?!。