初老牧師:友川 栄
「弱いときにこそ強い」
聖書はベストセラーと言われますが、最後は「つんどく」で終わってしまうようです。読むと分かるように、書かれた歴史や文化や習慣などを理解しないと、とても歯が立たない難解な書だからでしょう。「殺害」「嫉妬」「憎しみ」「怒り」という人間のドロドロしたところが赤裸々に書いていますから。「クリスチャン」になれば「問題」「悲しみ」「試練」が無くなると
考えている方は、多少誤解していると思いますね。
考えている方は、多少誤解していると思いますね。
「クリスチャン」になるとは、イエス・キリストが歩まれた道を神に助けを求め、支えられながら生きていくこと。「ハッピー・エンド」ではありません。イエス・キリストの最後は十字架刑です。「敗北」ですよ。十字架にかけられたイエス・キリストを見ながら、群集は「十字架から降りてみよ。降りたら信じてやる」と罵倒をしています。ここに人間の偽りで浅薄な幸福感が集約されていないでしょうか。人間は「試練」や「艱難」に遭遇すると、無視し避けようとします。勿論、時には逃げてもいい!。心身が崩れる危機的なときは「果敢なる逃亡」も必要です。
人間は「奇跡」に弱いですね。それが出来る方こそ「神さま」と思い込んでいる。心の片隅で全知全能の神を求める。祈りも同じではありません?。祈れば、願い通りに、直ぐに適えられると思っていませんか。でも、現実は願いが適えられないことが多い。逆に、祈りが適えられないことを経験して「艱難の真意」を分かることも。魂の背骨が鍛えられる。神は耐える力を与えてくださった、と感謝できる。生きる意味を深く学ぶ「千載一遇の機会」と知ることも。
神を心から畏れている「クリスチャン」は「悲しみ」「試練」「苦悩」に抗しながらも、それが御心と受けとめさせられる。年を重ねると、それが一層実感しますね。「独りぼっち」になった時、言葉では表現できない「孤独感」に苛む。いつかは「独り」になる。男性はこれには弱いですなぁ。しかし、その時に「神の愛」や友人のさりげない「温かい支え」を身近に感じるでは。
イエス・キリストに出会い回心したパウロも同じです。パウロの回心後は、「薔薇色」の人生ではなく、試練の連続でした。でも苦悩が深まれば、神の愛の深さを信じると書簡で書いています。それどころか「弱いときにこそ強い」(コリント(二)12:10)と言い切っていますよ。人それぞれ固有の弱さや傷を引きずって生きている。弱さを嫌悪するのではなく、弱さを神の宝物として引き受けていく。弱さは「優しさ」と「他人の傷」に敏感なことの「裏返し」ですから。そんな人生を歩みたいなぁ?!。「とぼ、とぼ」と、「嗚咽」しつつ、時には心許せる友や家族に「SOS」を出しながら。しかし「弱いときにこそ強い」人にいつ変貌できるのでしょうか。あぁ!道遠し。