2013年7月20日土曜日

牧師のひとり言 NO29


                                初老牧師:友川栄

「自分を捨てる」     

 

   「キリスト者とは狭い山道を行くような、いや剃刀の刃の上を行くような厳しい人生を送るものである。・・・私たちは
肉を肩にしょいこんでいるので、四方八方から攻めたてられている。また、この道自体が非常に狭いから、もし危険や障害物がなかったとしても、どっちみち苦渋に満ちている・・・心を決めるがよい。キリスト者でありたいのならば、狭い門は狭いままにしておきなさい。・・・道を広げようなどとはしないことだ。」と宗教改革者M・ルターが「慰めと励ましの言葉:1月10日の黙想」に記しています。

 

クリスチャンも肉体をもつ人間ですから、安易な道、広い道を選ぼうとする誘惑に負けそうになります。辛い道は通りたくないというのが正直なところでしょう。それを「真の幸福」と感じている方々が多いのではないでしょうか。初代教会のクリスチャンも多くの誘惑、試練、艱難を味わっていたようです。その真っ只中で支えになったのがイエス・キリストのみ言葉であり、み業です。

「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがのところに来る・・」(マタイ7:15)とイエス・キリストは警鐘を鳴らしています。「どきっ!」とする言葉です。牧師に向けられた戒めです。口先だけの宗教家(私も含めて)が何と多いことか。

 

イエスは「『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」と続ける。信心深い人です。がしかし、人間は信仰心をも神に誇ろうとする。更に、『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって、悪霊を追い出し、あなたの名で多くの力あるわざを行ったではありませんか』(マタイ7:22)と言う人に対して、イエスは称賛するどころか「不法を働く者どもよ、行ってしまえ」(マタイ7:23)と追い払う。どこが欠けているのでしょうか。

 

イエス・キリストは、預言をし、悪霊を追い出す、奇跡を起こすことの背後に「自力」で行えるという高慢をみる。神の導きを信頼しない傲慢を見抜く。キリスト教信仰とは常に「自分を捨てる」ことが求められる。日々捨て続ける。「道であり、真理であり、命である」イエスに従い続けてゆく以外に道はない。「力を捨てよ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」(詩編46:11,12)の聖句を命の糧として歩んでいきたい。


また また また アクセス有難うございます。「また逢う日まで また逢うときまで♪」を楽しみにしています。田尻教会に是非お越しください・・・。
 

0 件のコメント: