初老牧師:友川栄
「人をさばくな」
マタイ福音書の5章から7章まではイエス・キリストの「山上の垂訓」と呼ばれているところです。多くの方々が慰めや励ましを受ける教えが書き残されています。イエス・キリストの教えのエキスが「山上の垂訓」に凝縮されているといっても過言ではありません。この教えの背後にイエス・キリストの十字架と復活が込められていることを忘れてはいけません。イエスは単なる
机上の空論や理想論を説いているのではありません。ご自身が命まで捨て愛し甦られ、信じる者たちを救い上げた真理が込められているのです。
ご無沙汰しています。お元気だったでしょうか。友人のS君からお灸をすえられ また書く決意をしました。S君 また「逢う日まで」を楽しみにしていますよ。皆さんもどうぞお読みいただければ幸いです。
机上の空論や理想論を説いているのではありません。ご自身が命まで捨て愛し甦られ、信じる者たちを救い上げた真理が込められているのです。
さて、イエスは「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(マタイ7:1、2)と弟子たちに語っています。この聖句は私の胸に突き刺さるみ言葉の一つです。今まで性懲りもなく、何度人々をさばいてきただろうかと猛省するのみです。恐らく今後も「人をさばく」心がもたげてくるでしょう。自分は正しい、悪いのは「あの人だ」という正義感に燃える時もありましょう。反対に、自分が駄目で「あの人」が正しいと自己卑下することもあり得る。マタイ福音書を書いた著者も初代教会のクリスチャンも、このイエスの教えに躓いたのではないでしょうか。人間のドロドロした罪があぶり出される思いをしたのではないでしょうか。イエスの教えは永遠の課題ともいえます。
人間にはどうにも馬の合わない人がいませんか。恥ずかしいながら私にもおりました。口には出さないものの会うだけで「嫌な奴」と思う。それも瞬間的に分かる。理屈ではないのですね。感情でしょうか。イエスはそのような人間の深層心理を知っている。イエスは人間の魂の闇を見据えて「自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい」(マタイ7:4,5)と語ります。
「ちり」とは本当に小さな物です。「梁」は丸太です。家が支える「梁」です。しかし、私たちは嫌いな人ほど「ちり」が「梁」に思えてしまう。自分の弱さや欠点を棚上げにして他人のあら捜しをしたがる。三浦綾子さんが、ある小説で「人間には二つの定規がある。自分を測る定規は甘く、他人を測る定規は厳しい」という趣旨を書いております。何も反論できないほど的を射ている指摘ではないでしょうか。情けない限りです。人間の物差しに立つのではなく、全てを公平に見て下さる神に立って行きないですね。がしかし、全て神に委ねて生きて行けるのはいつのことやら・・・。でも「神には何でも出来る」とこを信じてゆきたいなぁ!