2013年7月29日月曜日

牧師のひとり言 NO30


                 初老牧師 友川 栄

 

                                                  「お言葉をください」    
 
 「われ信ず」とは、「われ信頼す」ということである。私はもう自分自身を信頼しようとする必要はない。もう自分自身を義とし、自己弁護し、自分自身を救い、守ろうとする必要はない。・・・私は、私を信じるのではなく、
父・子・聖霊の神を信じる。・・・信実は、神の御許にのみあり、信仰とは、この神に固着することを許される信頼であり、神の約束と教示に固着することを許される信頼である。」とK・バルトは「教義学要綱」(邦訳20P)書いています。
 
信仰とは神を信頼することに尽きる。どんな時も、神に信頼し、導きを信じ、約束を信じてゆく。イエス・キリストの愛は途方もなく広く深い。イエスが生きていた時代は多くの差別があったようです。体の不自由な人々、ハンセン病、異邦人(ユダヤ人以外の人々)、女性などへの蔑視がありました。しかし、イエス・キリストはそのような人々と分け隔てなく交わりをしていました。当時としては革命的な事であった筈です。マタイ福音書8章5から13節までに、それを示す聖句がある。
  
   百卒長はイエスにカペナウム(イエス・キリストの弟子:ペテロとアンデレの故郷。ローマ兵が駐屯していた漁港地)で自分の「僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」(マタイ8:6)と助けを求める。「僕」をある日本語訳(前田護郎訳)は「息子」としています。もし息子なら百卒長の願いは藁をもつかむ思いであったことでしょう。イエス・キリストはその願いを「わたしが行てなおしてあげよう」と快く受け止める。
 
   ところが百卒長は自分がユダヤ人ではないことを承知していたのでしょう。そのような資格はありません、「ただ、お言葉をください。そうすれば僕はなおります」(マタイ8:8)と話す。そして百卒長は自分の家来に何事を命じても忠実に行うことをイエスに語るのです。重責を担っている人なら分かりますが、これはそう簡単なことではありません。嫌なことを命じられれば「ぶつ ぶつ」文句の一言でもでるのがおちです。しかし家来はそうはしない。忠実に守る。これは信頼されていなければ不可能です。百卒長と家来には強い信頼関係があったのです。
 
   百卒長はイエスに全幅の信頼を持っていたのでしょう。だから「ただ、お言葉をください」と言えたのです。これは単に百卒長の信仰の深さを教えるだけでなく、クリスチャンへの警鐘のみ言葉ではないでしょうか。私たちは心から神の言葉を信頼しているでしょうか。ここに信仰の試金石があるではないでしょうか。本心から「ただ、お言葉をください」と乞い求めたいなぁ!。