「唯々、神を信じて」
友川栄
マタイによる福音書12章38~42節 2021年 4月 18日(日)
人間は「しるし」に弱い。超自然的な「しるし」にしがみつきやすい。病気や困難が深刻であればあるほど「しるし:奇跡や癒しにも含む」にのめり込みやすい。主イエスはそのような考えに「否」と断言する。律法学者、パリサイ人のある者たちが主イエスに向かって「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただいとうございます」(マタイ福音書12章38節)と願う。主イエスは預言者ヨナにしるし以外に与えられないと答える。マタイ福音書16章1節以下(パリサイ人やサドカイ人が天からしるし求める)に同じような問答が書かれていることから、人間は「しるし」求めやすいかが分かる。このような誘惑は常に私たちを襲う。私自身も妻の病気を癒して欲しいと幾度も祈ってきた。しかし、神は私の祈りを叶えて下さらなかった。今でも妻の病気は癒されていない。だが、妻の病気や昨年の2月中旬から私自身が「肺高血圧症」と診断されてから色々なことを教えていただいている。元気な時に気づかなかったことが病気になって初めて分かったことが沢山ある。今、私は皆さんに前で説教していますが、声を出すことが出来ることに感謝している。また、若い時には全く気付かなかったことですが、階段の上り下り(僅か二段や三段での上り下りでも)には体の筋力を使うことが分かるようになりました。平凡が平凡でないないことに気づくようになりました。そういう意味では、病気は人間を謙遜してくれる神に惠なのかもしれません。
さて、主イエスが預言者ヨナのしるし以外に与えられないと答えたことに留意したいと思う。「すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、土の中にいるであろう。二ネべ(アッシリヤ帝国の首都)の人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、かれらを罪に定めるであろう。なぜなら、二ネべの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし、見よ、ヨナにまさる者がここにいる。」(マタイ12章40、41節)。「人の子も三日三晩、土の中にいるであろう」を佐藤研氏は「人の子も大地に只中に三日三晩、いるであろう」と訳す。更にNew King James Versionは「 so will the Son of Man be three days and three nights in the heart of the earth」と訳す。ここに主イエスの十字架の死が暗示されている。キリスト者は主イエスの十字架の死と復活に「神の愛」と「神の赦し」が啓示されていることを信じている。私たちは今日も説教に前に使徒信条を唱和しました。主イエスの項目に「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ。ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、黄泉にくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神に右に座してまえり」云々と続く。特に「死にて葬られ」に注目したい。私たちのいつかは死を迎える。そして「葬られる」のである。しかし、この使徒信条が明確に告げることは、私たちが葬られる時にも「一人ではない」という事である。主イエスがそこにも共にいてくださる。何という慰めであろうか。
更に「なぜなら、二ネべの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし、見よ、ヨナに勝る者がここにいる」という御言葉に真摯に傾聴したい。キリスト者は何時も「悔い改める者」である。「悔い改め」と「後悔する」とは違う。むしろ「回心」と言う言葉が正しい。M。ルターはプロテスタントの宗教改革の発端となった95箇条の提題の第一提題のはこう書かれている。「私たちの主であり、しであるイエス。キリストが『悔い改めなさい・・・(マタイ4章17節』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである)を肝に銘じたい。唯々、神を信じながら。