「心を騒がせるな」
ヨハネ福音書14章1~11節 2021年5月2日
ヨハネ福音書はAD80年代頃、ユダヤ教から公式に異端視(偶像礼拝)されキリスト内外から激しい迫害が時に記されたと推察されている。激しい迫害に最中キリスト者を支え励ましたのがヨハネ福音書だと言われている。いや、試練の只中にある時にこそ聖書の御言葉がそそり立つのである。私たちの歩みべき道と命の真理が示される。
14章は17章まで続く主イエスの決別説教だと言われている。謂わば、主イエスの遺言である。まず、冒頭の主イエスの御言葉に留意したい。「心を騒がせるな。神を信じなさい。(ある英語訳は「信じ続けなさい」と訳す)。そして、私をも信じなさい。私の家には住むところがたくさんある。・・・場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのところに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることとなる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(1~4節)主イエスの御言葉は迫害にあったキリスト者に大きな勇気を慰めを与えたと思う。死を突く抜けてくる復活の光が差し込んでいるからだ。
だが、トマスは自分の疑問点を主イエスに正直に告げる。もう一人の弟子フィリポも同様に分からないがあれば正直に尋ねる。彼ら二人の主イエスへの問いかけが実は神の御心を深く知る契機となるのだ。信仰とはそう平坦な道ではない。理解しがたいことが何と多いことか。人生はそう甘くない。でも数回で諦めてはいけない。数週間いや数年いや信仰は週十年のスパンなのである。主イエスに執拗に問い、祈り、格闘する覚悟は要る。トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、私たちは分かりません」(5節)と問う。主イエスは「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、父のもとにいきことができない」(6節)と語る。」
Phillips訳は「I myself am the road...the truth and the life」と原文に近く訳す。「道、真理、命」そのものである主イエスを信じて生きて行きたい。フィリポも「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します」(8節)と問う。神を利用とする傲慢が暗示されている。だが、主イエスは「フィリポ、・・・私たちを見た者は(原文は完了形:He who has seen Me has seen the Father)は父と見たのだ。・・・私が父の内におり、父がわたしの内におられることを信じないのか。」(9、10節)と答える。
コロナ禍の中で「快適」「インスタント」「大勢」を闊歩して来た現代文明が今問われていないだろうか。真に畏れるお方を畏れ、「三密」を避け「心を騒がせるな」と語る主イエスに従って行きたい。