祈りの極み
マタイによる福音書6章11~15節 2021年5月16日
マタイ福音書6章11節以下の御言葉は人間に関する祈りである。第一の祈りは「わたしたちの必要な糧を今日与え下さい」(11節)とある。「必要な」と訳されている言葉は「エピウゥシオス」でここと、ルカ福音書11章3節の主の祈りに使われているだけで解釈困難な言葉である。佐藤研氏は注に「可能な解釈例は「明日の」あるいは「これから来る日=(今日の)意味、朝の祈りを想定」(前田護郎訳、フランシスコ会訳)が有力だが、意味的に問題がある」と記す。口語訳は「日ごとの食物を、きょうもお与え下さい」と訳す。主イエスは私たち人間に関して祈る第一に日ごとの食べ物を与えて下さい、と祈れと勧める。
これは大変大切な事です。この祈りの最良の註解はマタイ福音書6章25節以下の御言葉である。何を着ようか、何を食べようかと思い悩むな。空の鳥や野に咲く草花を見よ、・・・「神の国と神の義を求めさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日の事まで思い悩むな。明日こことは明日自ら思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(33、34節)主イエスの言われる通りである。私たちは何と色々なことで心煩わすことか。あの人とは一緒に仕事が出来ないとか、一緒にいるだけで嫌になるとか課題が色々です。しかし、神は最もベストなように道を整えてくれるお方です。ですから、今ここに生かされていることに感謝して生きて行けば良い。その日の苦労は、その日で十分であるを信じて生きて行かば良いのだ。
第二は「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。」(12~14節)この御言葉を12弟子たちは如何聞いたのだろうか。彼らは主イエスの十字架が目前に迫ってきたときに、ペトロは初めとする弟子たちが主イエスを見捨てて逃げたのである。「見捨てる」と「赦す」という言葉は同じ言葉なのだ。主イエスは三日目に死から復活されて、弟子の元へ所へ行くのである。これは驚くべきことではないでしょうか。主イエスの勧めに最後まで従った弟子たちだけはありません。私たちは如何でしょうか。一度、二度、三度と裏切られた人を信用するでしょうか。私には自信がありません。でも、主イエスはそのような不甲斐ない弟子たちを、再び神の御国の宣教の御業のために用いたのです。皆さん、パウロのことを考えて見て下さい。パウロは神と等しいと信じていた初代のクリスチャンを赦せなかったのです。偶像崇拝として迫害していたのです。その迫害者を神は異邦人伝道のためにパウロを選んだのです。とても信じられないことです。
弟子たちもそうです。彼らはユダヤ人ですよ。裏切りということは、私たちが考える以上に重みが違うのです。でも、主イエスは、不甲斐ない弟子たちを用いて神の御国の宣教の御業を当たらせたのです。主イエスが十字架刑につけれらた時に語った御言葉に留意したい。十字架上の主イエスを罵倒、嘲笑した民衆に対して「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ福音書23章34節)と贖いの赦しをしておられる。弟子たちも同じです。弟子たちは主イエスの赦しの深さに砕かれたのではないでしょうか。主イエスの赦し深さははかり知れません。
また、信仰生活には誘惑が伴う。悪魔の誘惑に遭遇する。ぺトロの手紙(一)5章8節以下をご覧ください。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかりと踏み留まって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわちキリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へと招いて下さった神ご自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者として、強め、力づけ、揺らぐことがないように下さいます。」(5章8~11節)と記されている。わたしたちはこの世の生きて行く限り、悪魔の誘惑に晒されます。しかし、神は決して見捨てません。信仰を確固なものに変えてくださるのです。ですから、主イエスを信じて歩んで行きましょう。畏れと感謝とを抱きながら「主の祈り」を唱和して行きましょう。